親は自己犠牲して子を育てるのが当たり前と、世の中の人は思っているけれど。
子育ては自己愛の延長というある人の話を読んで、なるほどなぁと思った。
結局、自分の遺伝子を持つから育てている、という自己愛。
確かに、血のつながりのない子を育てることは、ハードルが高い気がする。
血のつながらない他人の子を、我が子のように育てられるか。
そう問われると、素直に首を縦には振れない。
まぁ、人間の動物的な部分から見れば、子育ては自己複製だから、そういう側面も仕方がない。
子育てのそもそもが、自己愛。
親の子育てを自己犠牲という美談や純愛に仕立てることによって、親になる人間を気持ちよくしている。
自分のやっている子育ては、とても尊いことなのだ、と思わせている。
でも、考えてみれば、動物だって、当たり前のように子育てしている。
本能にプログラミングされたことで、尊いでもなんでもない。
人間の社会が、子育てをややこしくしているのだ。
社会性がある動物ゆえ、人間の子育てはこうもややこしいのだ。
社会は子育てというものに、実は純愛なんて求めていない。
社会の構成員を増やしてくれるために、子育てを必要としている。
ただ、みんなに子育ては純愛で尊いと思わせると、社会にとって、都合がいい。
親はこれが純愛と思い込めば、犠牲を払って、子を育てるのが当たり前と思う。
そして、未来の社会を構築する人間を大事に育てる。
「子育てって、素晴らしいんですよ!純愛ですよ!」そういうプロパガンダがあちこちに流れている。
そうして、子なし夫婦やいつまでも結婚しない若者は肩身が狭くなり、すでに子供のいる親は、負担が増える。
「子育てはこうするのが当たり前」が増える。
世の中の多くのお母さんは、夏休みがくると、げっそりしている。
早く終われ夏休みと、Twitterでつぶやく。
どんなに愛していても、24時間一緒にいて、「母親」でいるのは、しんどい。
自己犠牲を当たり前とする子育て論のプレッシャーに、多くの親が音を上げる。
苦労して、自己犠牲して育ててるからこそ、子供が思い通りにならないと、怒り狂ってしまう。
子供は一個人として、尊重する。
子供の性格は半分は遺伝、半分は環境なのだそうだ。
それって、救いではないだろうか。
自分の育て方が悪いんじゃないと思えるから。
残りの50%はできる範囲で頑張ろうと思う。
子育てはもっと、肩の力を抜いてもいいと思う。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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