昨日、岡田斗司夫氏の「オタクの息子に悩んでます」を読んでいたら、面白い文章が出てきて、思わず、2、3度読み返した。
この本は、岡田氏が朝日新聞の「悩みのるつぼ」で人生相談に回答していた時代の本で、悩みの考え方がたくさん書かれている。
その中で私が面白いと思ったのが、以下の内容だ。
恋愛というのは「無意識化された演劇」
だから僕らは、恋愛の時には、いかにも恋人同士がしそうなことをする。
恋愛は演技。
恋人同士ということで、世間一般で言われる「恋人たちがするようなこと」
例えば、手を繋いで綺麗な夕焼けを見るとか、映画を二人で観るとか、クリスマスにプレゼントを交換するとか、抱きしめるとか、キスするとか、おはようのLINEを送るとか、そういう演技をしている。
生まれたばかりの赤ちゃんは、恋人同士がどういうふうに振る舞うのか、全く知らない。
私たちは恋人同士がすることを、育っていく中のメディアとか社会とか学んで、恋人同士ならこうするよねということを学び、実際に、相手ができた時にそれを演じていく。
恋人ができたけど、じゃあ、どうやって付き合うんだ?
その時、メディアや社会で覚えた、「恋人同士ですること」を、演じていく。
これは、恋愛だけじゃないんじゃない。
家族の間では、家族の演技、母親であれば母親の演技、上司であれば上司という演技、部下であれば部下という演技をしていく。
お母さんはこう言う人、お父さんはこう言う感じ、先輩っていうのはこういうもの、後輩はこうあるべき、などなど。
今までの人生で、見聞きして、覚えてきたこと、学んだことををだ。
(毒親育ちは毒親になるということではなく、毒親に育てられても、自分の親と比べて、周りのまともな親を見て、自分の親は反面教師にして、親になる人もたくさんいる)
赤ちゃん・幼児以外は、そういう社会的な役目を、周囲やメディアを通じて、学んでいく。
そして、いざ自分がそういう役目になった時、その役目を演じようとする。
世間一般で言う、あるいは自分が持つ「母親というのはこういうもの」というイメージを、演じているのだ。
見てきたもの、接してきた環境が違うと、同じ母親の演技でも、AさんBさんと微妙にちがったりする。
夫が抱く母親像・妻像が、自分の妻を持っていなかった時、違和感となり、口論になったりする。
家族という演目も、同じ夫婦でも、育った環境が違うと、違ってきたりする。
時には、自分の演じ方に疑問を持ったり、その演技の時間が長いと、負担になったりすることがある。
娘が小さい時、私は明らかに母親役ばかりやっていたし、それが想像以上にしんどくて、夫が家にいる時、一人で出かける時間で、この役目をほんのひとときの間でも、降りれることが嬉しかった。
私と違って、子ども大好きで、ずっと母親を演じ続けることが苦じゃない人もいる。
人それぞれだ。
また、夫婦は恋人同士の演技を忘れると、家族の演技しかできなくなる場合が多い。
両方が家族という演技のみに納得しているならいいけれど、片方が、恋人の演技を求めている場合、外でその相手役を探したりする。
この演技っていう考え方は、面白い。
人は基本、他人のことを怖いと思っている。
相手にどういう自分で接したらいいのかわからない。
だから、ある程度、決められている演技をすることが、安全で楽な戦略なのだ。
だから、演技をする。
学校の先生に対して、友達役で演じるより、どんなに馴れ馴れしくても、生徒である役で演じる方が、楽。
上司に対して、友達役で演じるより、部下役を演じる方が、楽。
自分がどの役を演じていているのか。
相手は今、どんな役を演じているのか。
お互いに抱く、役のイメージは同じか、違うか。
そういうことを考えていくと、相手や自分の持っている価値観とか戦略とか、わかるので、とても面白い。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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