自分の中で沸き起こる罪悪感というものに、どんな意味があるのかということを、ずっと考えてきた。多分、ここ1年くらい。
悪いことをしてはいけないという同調圧力?
そんなもので片付けてしまえるほど、人の心は単純じゃない。
辿り着いた結論は「いい人にみられたい」という自分の願望だった。
「いい人にみられるということ」は、つまり「群れ社会で自分は無害な個体です」というアピールである。
いい人に見られることによって、仲間に受け入れてもらえることになる。
仲間から除け者にされて、群れから離れて生きていくことは、命の危険を意味する。
だから、群れの中でちょっと逸脱した行動をした時、心に罪悪感というものを、脳の戦略的に持つようになった。
つまり、これは脳による争い難い本能なのだ。
これに気づけた私は、罪悪感を感じた時、「この群れにいい人と思われるように振る舞うことと、自分が好きなように振る舞うことのメリット・デメリット」を考えるようになった。
群れは、所属しているコミュニティである。
付き合いの薄いママ友・遠い友人関係は、そこまで大事じゃない。
あまり「いい人に見られること」に固執しない。
いい人に見られなくても、命の危険はない。
孤独でも生きていける。
でも、職場での同僚との関係は大切だ。
これも、同様に、命の危険がなくても、私にとって、職場での和やかな会話や雰囲気というのは、大切にしたいし、精神的に必要なものだ。
職場ではいい人に見られたいと思うし、いい人でありたいと思う。
なので、あまり逸脱した行為はせず、空気を読む。
そうやって分類すると、不要な罪悪感が軽くなる。
それでも感じてしまう罪悪感は、人生のスパイスと思って、受け入れようと思う。
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